2002.03.06
惜別・ムネカタ女子ハンドボールチーム
日記を更新するのは、超久しぶりです。前回の日記は9月で終わっていますから、およそ半年振りです。これでは日記じゃありませんね。申し訳ございません。確か7か月前の日記は自動的に削除されてしまう筈ですから、何とか前回の日記が残っている内に更新でき、ほっとしています。
春は別れの季節、旅立ちの季節でもあります。
福島県では34年の伝統を持つ女子ハンドボールチーム「ムネカタ」が、3月3日の日本リーグの最終戦をもって解散しました。私はチームを取材し、ムネカタの足跡と最終戦の模様をきのう放送しました。今回はそのこぼれ話を書こうかと思います。
創部当初からの監督、田口侑義さんは今から34年前ムネカタの女子チームを作る際に招聘された方です。
「本当は最初の5年くらい面倒を見るつもりが、いつの間にか今までになりましてね。」
ムネカタ1年目はチームとして成り立つぎりぎりの7人でスタートしました。まだ日本ハンドボールリーグの無い当時の目標は、「東北予選に勝って国体に出場する事」でした。その頃の田口監督の苦労は、選手に勝つ自信をつけさせる事だったと言います。
「最初は、みんな『勝てない。』って言うんですよ。今まで東北で勝った事が無いから。でも『きちんとした練習を積んでいけば勝てるんだ。』って説得して、それはそれは厳しい練習をしましたよ。」
当時は盆も正月も無い練習漬けに、選手の親御さんが驚かれたそうですが、目標よりも早く東北チャンピオンになり、19回連続で国体に出場するなど輝かしい歴史を築いてきました。
3月3日、栃木県での最終戦当日。
今でも私の目に焼き付いているのは、試合開始1時間前に選手がウォーミングアップを始める中、一人コートを歩き回る田口監督の姿でした。取材やお世話になった方の挨拶に応対する合間、田口監督は自らの足でハンドボールのコートの感触を味わうように歩いていらっしゃいました。その姿からはムネカタやハンドボールへの愛着が伝わってきました。
試合は前半に14点のリードを許す、まずい展開。ハーフタイムを取材しようとベンチ脇に進むと、田口監督は私を見つけるなり、
「みんな『最後の試合』っていうのを意識しちゃって、2割の力しか出せてないよ。まぁ意識するなって言っても難しいでしょうけどね。」
と苦笑されていました。
後半は力が出せたのかもしれません。後半だけを見ると、スコアは11対12でほぼ互角でした。
そして試合後、ムネカタの選手たちが体育館の中央に整列した時の事です。アナウンスが流れました。
「ムネカタの皆様には、栃木県の高校女子チームが強化合宿などで大変お世話になりました。厚く御礼を申し上げます。」
ムネカタは、福島県内は勿論、お隣栃木県のジュニアの育成にも一役買っていたのです。栃木のファンからも温かい拍手が送られ、福島県民としては誇らしくも嬉しいシーンでした。
試合後、田口監督は「まだチームが終わったって気持ちになれないねぇ。あしたも練習があるような気持ちなんですねぇ。」とおっしゃっていました。監督の人生の半分以上をムネカタで過ごされていたのですから、それも頷けます。
一方、選手の今後ですが、3日に聞いた時点では様々です。移籍して続ける道を模索する人、ほかのスポーツをやってみようと思う人、大会を目指す為のハンドボールからは退く人、地域のクラブに入って続けていく人…。そんな選手たちに「今何がしたいですか?」と尋ねたら、こんな答が返って来ました。
「ゆっくりしたい。」「寝たい。」「食事がしたい。」などなど…。
そして、こんな答も。
「(部員の)みんなと遊びたい。」
ハンドボールを通じて過ごす時間はあっても、ハンドボール以外の事で一緒に過ごす時間がとれなかったんですね。
ムネカタ女子ハンドボールチームの皆さん、本当にお疲れ様でした。もうカメラがお邪魔するのはここまで、それぞれの道を歩む前に素敵な時間をお過ごし下さい。
追記 ムネカタは日本リーグの9チームの中で最も警告等が少ないフェアプレー賞に輝きました。ムネカタとしては初の受賞で、有終の美を飾りました。
春は別れの季節、旅立ちの季節でもあります。
福島県では34年の伝統を持つ女子ハンドボールチーム「ムネカタ」が、3月3日の日本リーグの最終戦をもって解散しました。私はチームを取材し、ムネカタの足跡と最終戦の模様をきのう放送しました。今回はそのこぼれ話を書こうかと思います。
創部当初からの監督、田口侑義さんは今から34年前ムネカタの女子チームを作る際に招聘された方です。
「本当は最初の5年くらい面倒を見るつもりが、いつの間にか今までになりましてね。」
ムネカタ1年目はチームとして成り立つぎりぎりの7人でスタートしました。まだ日本ハンドボールリーグの無い当時の目標は、「東北予選に勝って国体に出場する事」でした。その頃の田口監督の苦労は、選手に勝つ自信をつけさせる事だったと言います。
「最初は、みんな『勝てない。』って言うんですよ。今まで東北で勝った事が無いから。でも『きちんとした練習を積んでいけば勝てるんだ。』って説得して、それはそれは厳しい練習をしましたよ。」
当時は盆も正月も無い練習漬けに、選手の親御さんが驚かれたそうですが、目標よりも早く東北チャンピオンになり、19回連続で国体に出場するなど輝かしい歴史を築いてきました。
3月3日、栃木県での最終戦当日。
今でも私の目に焼き付いているのは、試合開始1時間前に選手がウォーミングアップを始める中、一人コートを歩き回る田口監督の姿でした。取材やお世話になった方の挨拶に応対する合間、田口監督は自らの足でハンドボールのコートの感触を味わうように歩いていらっしゃいました。その姿からはムネカタやハンドボールへの愛着が伝わってきました。
試合は前半に14点のリードを許す、まずい展開。ハーフタイムを取材しようとベンチ脇に進むと、田口監督は私を見つけるなり、
「みんな『最後の試合』っていうのを意識しちゃって、2割の力しか出せてないよ。まぁ意識するなって言っても難しいでしょうけどね。」
と苦笑されていました。
後半は力が出せたのかもしれません。後半だけを見ると、スコアは11対12でほぼ互角でした。
そして試合後、ムネカタの選手たちが体育館の中央に整列した時の事です。アナウンスが流れました。
「ムネカタの皆様には、栃木県の高校女子チームが強化合宿などで大変お世話になりました。厚く御礼を申し上げます。」
ムネカタは、福島県内は勿論、お隣栃木県のジュニアの育成にも一役買っていたのです。栃木のファンからも温かい拍手が送られ、福島県民としては誇らしくも嬉しいシーンでした。
試合後、田口監督は「まだチームが終わったって気持ちになれないねぇ。あしたも練習があるような気持ちなんですねぇ。」とおっしゃっていました。監督の人生の半分以上をムネカタで過ごされていたのですから、それも頷けます。
一方、選手の今後ですが、3日に聞いた時点では様々です。移籍して続ける道を模索する人、ほかのスポーツをやってみようと思う人、大会を目指す為のハンドボールからは退く人、地域のクラブに入って続けていく人…。そんな選手たちに「今何がしたいですか?」と尋ねたら、こんな答が返って来ました。
「ゆっくりしたい。」「寝たい。」「食事がしたい。」などなど…。
そして、こんな答も。
「(部員の)みんなと遊びたい。」
ハンドボールを通じて過ごす時間はあっても、ハンドボール以外の事で一緒に過ごす時間がとれなかったんですね。
ムネカタ女子ハンドボールチームの皆さん、本当にお疲れ様でした。もうカメラがお邪魔するのはここまで、それぞれの道を歩む前に素敵な時間をお過ごし下さい。
追記 ムネカタは日本リーグの9チームの中で最も警告等が少ないフェアプレー賞に輝きました。ムネカタとしては初の受賞で、有終の美を飾りました。
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