2022.08.19
I wish I could see her again.
きょうは石井アナがお休みの為、『ゴジてれChu!』第1部の代打MCでした。
サイコロゲームは…済みません<(_ _)> 6の後の6は駄目ですね。失礼いたしました(途中、3や4の難しい目はクリア出来たのに…)。
そんな番組の中で、皆様からの投稿をお寄せいただく「オレンジポスト」のコーナーで来週のテーマ「会いたい」を紹介した際、私の「会いたい」人のエピソードを話したのですが、中途半端になってしまったのでブログの場を借りて少々。私事で恐縮ですが…。
私の「会いたい」人は、美登里先生です。
小学校3年4組の時の担任の先生です。新卒で我が母校に赴任し、3年間とも3年4組を担任していました。きっと新卒の先生の、学校としての育て方だったのでしょう。同じ学年を繰り返す事で、新卒の先生の教授方法の確立を目指させていたのかも知れません。
私は美登里先生が3年目の時の児童でした。美登里先生から出ていた課題の一つが、日記です。ところが当時の私にとって、日記に毎日書くような出来事が起こりません(まぁこれは感受性の問題で、ちょっとした出来事を楽しんで書けば良いのですけどね)。そこで私は考えました。
―――普段の出来事で書くような事が無いなら、想像した話を書けば良いのではないか―――
当時私は江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』が好きで(テレビでも日本テレビで『少年探偵団』、フジテレビで『怪人二十面相』を放送していました)、推理小説もどきなら書けるかも、しかも想像だから幾らでも話が膨らませられるし、1日分の日記が埋まれば「つづく」にして何日分も埋められるし…と安易に考え、なんちゃって推理小説を日記の埋め草としました。すると何を思ったのか美登里先生、それを学級新聞に転載して下さったのです。それ以来、ものを書く事(表現)が好きになりました。将来は小説家になろうかと思ったりもしました。私の記憶には無いのですが、最後に先生と一緒に帰って来た時に、先生に「僕が小説家になったら先生にご馳走する」約束をしたと、母に話したそうです。先生が肩に手を置いて歩いて帰って来て、その“重さ”は今でも覚えています。
先生は私達の代で3度目の3年4組の担任を果たされた後、別の学校に転勤されました。春休みには級友たちが代わる代わる先生のアパートに遊びに行くくらい、人気のある先生でした。
あれから46年…美登里先生はどうされているでしょう?計算だと70歳程でいらっしゃるでしょうか。もう先生は引退されているのでしょう。でもきっとどこの学校に行っても慕われた先生だった事でしょう。
今私は、想像で創造した話を文字で表現する仕事ではなく、事実や出来事や感じた事を喋り言葉で表現する仕事に就いています。小説家ではありませんが、出来れば先生に食事を奢らせて頂きたいと、今でも思っています。
あの時の日記に書いたなんちゃって推理小説は、1つ終わった後は殆どが未完で、別の話を書きましたね。…はい、日記を埋めようと先を考えずに書き始めては、謎解きに行き詰って別の話へと、全くもっていい加減でした。それでも先生はお付き合いくださいました。その優しさのお陰で、私の今があります。
美登里先生、いつまでもお元気で。
サイコロゲームは…済みません<(_ _)> 6の後の6は駄目ですね。失礼いたしました(途中、3や4の難しい目はクリア出来たのに…)。
そんな番組の中で、皆様からの投稿をお寄せいただく「オレンジポスト」のコーナーで来週のテーマ「会いたい」を紹介した際、私の「会いたい」人のエピソードを話したのですが、中途半端になってしまったのでブログの場を借りて少々。私事で恐縮ですが…。
私の「会いたい」人は、美登里先生です。
小学校3年4組の時の担任の先生です。新卒で我が母校に赴任し、3年間とも3年4組を担任していました。きっと新卒の先生の、学校としての育て方だったのでしょう。同じ学年を繰り返す事で、新卒の先生の教授方法の確立を目指させていたのかも知れません。
私は美登里先生が3年目の時の児童でした。美登里先生から出ていた課題の一つが、日記です。ところが当時の私にとって、日記に毎日書くような出来事が起こりません(まぁこれは感受性の問題で、ちょっとした出来事を楽しんで書けば良いのですけどね)。そこで私は考えました。
―――普段の出来事で書くような事が無いなら、想像した話を書けば良いのではないか―――
当時私は江戸川乱歩の『少年探偵団シリーズ』が好きで(テレビでも日本テレビで『少年探偵団』、フジテレビで『怪人二十面相』を放送していました)、推理小説もどきなら書けるかも、しかも想像だから幾らでも話が膨らませられるし、1日分の日記が埋まれば「つづく」にして何日分も埋められるし…と安易に考え、なんちゃって推理小説を日記の埋め草としました。すると何を思ったのか美登里先生、それを学級新聞に転載して下さったのです。それ以来、ものを書く事(表現)が好きになりました。将来は小説家になろうかと思ったりもしました。私の記憶には無いのですが、最後に先生と一緒に帰って来た時に、先生に「僕が小説家になったら先生にご馳走する」約束をしたと、母に話したそうです。先生が肩に手を置いて歩いて帰って来て、その“重さ”は今でも覚えています。
先生は私達の代で3度目の3年4組の担任を果たされた後、別の学校に転勤されました。春休みには級友たちが代わる代わる先生のアパートに遊びに行くくらい、人気のある先生でした。
あれから46年…美登里先生はどうされているでしょう?計算だと70歳程でいらっしゃるでしょうか。もう先生は引退されているのでしょう。でもきっとどこの学校に行っても慕われた先生だった事でしょう。
今私は、想像で創造した話を文字で表現する仕事ではなく、事実や出来事や感じた事を喋り言葉で表現する仕事に就いています。小説家ではありませんが、出来れば先生に食事を奢らせて頂きたいと、今でも思っています。
あの時の日記に書いたなんちゃって推理小説は、1つ終わった後は殆どが未完で、別の話を書きましたね。…はい、日記を埋めようと先を考えずに書き始めては、謎解きに行き詰って別の話へと、全くもっていい加減でした。それでも先生はお付き合いくださいました。その優しさのお陰で、私の今があります。
美登里先生、いつまでもお元気で。
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