偉人、有名人、そして人知れず大きなことを成し遂げた人たち。
「ふくしまの素顔」は、福島県にゆかりのある人物の業績と人生にスポットを当てます。
遠藤新〜自然と共生した孤高の建築家〜
No.59 - 2001年06月24日(日) 放送
遠藤は、1889年(明治22)年、相馬郡、現新地町で生まれました。
東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、世界的建築家フランク・ロイド・ライトに師事し、帝国ホテル設計のアシスタントとして活躍。
その後、独自の建築、哲学をもって自由学園・甲子園ホテル・自由ケ丘教会をはじめ、中国(旧満州)における中央銀行クラブなど数々の作品を残しました。
生涯、孤高の建築家として日本の建築界に独自の分野を築き、戦後は、文部省建築審議委員となり、校舎建築の指導に当たりました。
番組では、日本のライトといわれた遠藤新の姿を追います。
ごご4:55〜5:25放送予定です。
太田博〜戦場に散った若き命の詩〜
No.58 - 2001年02月25日(日) 放送

卒業アルバムに残る太田博の写真
ごご4:55〜5:25放送
今回放送する太田博の経歴を紹介します。
太平洋戦争の最中、沖縄のひめゆり学徒のために卒業の歌を作詞しながら戦火に散った、若き無名詩人がいた。
郡山市で人生の大半を過ごした太田博である。
太田は、東京で生まれたが小学校入学まもない頃、郡山市の叔父宅に養子に入った。
子供の頃から詩才を発揮し、郡山商業高校在学中には『郡商健児の歌』『応援歌・星より星へ』などの詩を創作し、今も歌い継がれている。
郡山商業高校卒業後は、銀行に勤務するが太平洋戦争で応召される。
昭和19年8月に第24師団野戦高射隊小隊長として、沖縄へ赴いた。
アメリカ軍の沖縄上陸は、必死の情勢となり沖縄守備軍は、兵力不足のため県下の中等学校・女学校の生徒をも戦場へのと駆り出した。
女学生たちは『ひめゆり学徒隊』として勤労動員され授業も停止し卒業式まで延期された。
この時、太田が、ひめゆり学徒隊の陣地構築作業の指揮をとり女学生たちとの交流が生まれた。
卒業式を控えていた女学生たちのために太田は、卒業の歌を作詞したのである。
タイトルは「相思樹の歌」学校のそばにあった並木道の通称が相思樹で、女学生が思い出を積み重ねながら、幾度と歩いた道に因む。
本来、卒業式に歌うために作られた歌であったが、ついに卒業式は行われず、激しい戦火の中で歌われたという。
歌に秘められた太田の思いと平和への願い…。
無名詩人、太田博も、ひめゆり学徒隊同様に、若き命を戦争によって散らされた人であった。
郡山商業高校には、後輩たちへの太田博の存在を知らせるための記念碑が建立され、さらに修学旅行先には沖縄が選ばれている。
番組では、25歳で戦死した太田博の人生を、ひめゆり学徒隊の青春と重ね合わせ命の尊さを描きます。ご期待下さい。
舘井啓明(たていひろあき)〜おれはゴッホを超えた〜
No.57 - 2000年12月24日(日) 放送
今回は、次回放送を予定している舘井啓明の経歴を紹介します。
【1937‐1995】
1995年(平成7年)3月、その激しい生涯を閉じたひとりの作家がいた。
福島県伊達町の舘井啓明という絵かきである。
絵画という芸術に魅せられ、狂気のような30余年の人生を捧げた男である。
福島高校から武蔵野美大に進み、大学卒展の時に、客員講師で来ていた岡本太郎にその作品を激賛されたことが、彼の脳裏に長いことくすぶっていた。
その後、就職してインテリア産業界でデザインルームのトップの座にいたが、32歳にしてプロの絵かきを志し、突然職を捨てフランスに渡る。
2年数ヶ月あまりパリにいて、ルーブルの模写とパリの街のスケッチに明け暮れた。
日本に帰国した彼は精力的に油絵を書き、次々と作品を発表した。
ヌード、ピエロ、花、海外の風景、人物など、モチーフは多種多彩であった。
原色に近い強烈で深い色彩、どれもこれも舘井啓明独自の世界だった。
彼は自分を天才だと信じていた。
だから、公募展のようなアカデミックな画壇を昇って行くことを恥ずかしいことだと思い、画商の傲慢な傘の下に入ることを己に許そうとしなかった。
彼は多くの個展を開き、自ら自分の絵を直接一般の人々へ売り込んだ。
晩年、彼は「おれはゴッホを越えた」と言い放った。
舘井は持病の糖尿病からくる血管障害で脳内出血をおこし、急逝した。
還暦前の58歳でした。
この不器用な福島県伊達町出身の画家の美術館が、北海道七飯町大沼公園の森の中に誕生した。
館長でもある舘井真優美夫人は「主人の墓参りのように絵を身に来てほしい」と語っている。
現在制作中です。12月の「ふくしまの素顔(ごご3:55〜4:25放送)にご期待下さい。
服部マス〜国境を越えた教育への道〜
No.56 - 2000年10月29日(日) 放送
明治11年(1878)安達町に生まれる。日本女子大学国文科卒。20歳で中国に渡り女子教育養成に力を尽くし帰国後、日華親善のための在日中国留学生の寮で寮監となり世話にあたった。また、全国で学ぶ留学生達に対して時には私財を投じてまで支援活動を続けた。
橘 薫〜野馬追の復興に懸けた半生〜
No.55 - 2000年08月27日(日) 放送
平将門の時代まで溯ると伝えられる神事『相馬野馬追』。この神事の復興に力を注いだ橘薫。彼は甲冑師で相馬に生まれ育ち、祭りではかつてない若さで侍大将役を努めたこともあった。彼は精力的に各方面に働きかけることを続け、昭和28年、ついに伝統の形そのままの『相馬野馬追』の復興を果たすことができ、伝統を守り続ける礎を作った。
新城新蔵〜宇宙にかけた生涯〜
No.54 - 2000年06月25日(日) 放送
明治6年(1873)会津若松に生まれる。帝国大学を卒業しドイツで物理学を学ぶ。京都帝国大学理工科大学教授となり、理学博士の学位を受ける。ノーベル賞の湯川秀樹博士などを育てた『宇宙物理学講座』を新設し、京都帝国大学総長を務めた。『宇宙進化論』『天文大観』などの著書を含む1万冊の蔵書を国会図書館に寄贈され、新城文庫と名付けられた。
河野光子〜カワゲラの詩〜
No.53 - 2000年02月27日(日) 放送
大正5年に会津若松にある酒造会社に一人娘として生まれた河野光子はカワゲラの研究では世界的な学者となる。家業を継ぎながら独学で水生昆虫の研究に没頭し新種のカワゲラの発見などで理学博士となる。滋賀県立琵琶湖博物館には、光子が半世紀かけて収集した世界各国の昆虫類標本や図書、研究器具類などが展示されている。学者として、経営者として、妻として、母として精一杯生きた光子の生涯を通して挑戦する素晴らしさ、成し遂げる喜びを描く。
三浦弥平〜生涯走り続けた男〜
No.52 - 1999年12月26日(日) 放送
福島県初のオリンピック選手三浦弥平は1920年、アントワープ(ベルギー)の第7回オリンピックにマラソンランナーとして出場。晩年は梁川町に戻り青少年の教育に情熱を傾ける。近くの山を『オリンピック山』と名付け、子供たちと走った。ランナーである弥平の偉業と人生を故郷の日々をからめながら紹介する。
鴫原佐蔵〜果樹王国の先駆者〜
No.51 - 1999年10月31日(日) 放送
気候、風土に恵まれた福島県は、果樹も豊富で量・質とも他の追随をゆるさない『果樹王国』である。数ある果物の中で、福島市笹木野の萱場は梨の名産地。そこには一大産地となる基礎を気づいた鴫原佐蔵がいた。困窮の生活の中で、梨栽培に情熱をかけた佐蔵の思いを描き、果樹王国福島の礎の一つを紹介する。
ふくしまの素顔50回放送記念スペシャル 士魂の会津人〜維新からの人物列伝〜
No.50 - 1999年08月29日(日) 放送
鶴ヶ城開城による会津藩の敗戦は藩士とその家族5万人あまりを困苦と絶望で打ちのめした。しかし、激動の時代に新天地で生き抜く姿にこそ、真の会津士魂があった。作家・早乙女貢が『ふくしまの素顔』で今まで放送した中から会津人の武士魂を紹介する。




