番組情報 ふくしまの素顔

偉人、有名人、そして人知れず大きなことを成し遂げた人たち。
「ふくしまの素顔」は、福島県にゆかりのある人物の業績と人生にスポットを当てます。

額賀誠志〜「とんぼのめがね」のお医者さま〜

No.77 - 2004年12月26日(日) 放送

歌碑の前で撮影中のスタッフ

 童謡「とんぼのめがね」。この詞を書いたのは、広野町の医者、額賀誠志(ぬかがせいし)です。四倉町で生まれ、昭和12年に開業。子供の目を持った詩人であり、献身的な地域の医者でもあった誠志の優しさが、「とんぼのめがね」をはじめとする数々の名作を生み出しました。児童文芸誌「赤い鳥」の同人としても活躍しています。
 また、誠志は、福島県にウェイトリフティングを普及させたことでも有名です。福島県重量挙げ協会を設立し、初代会長も務めました。
 広野町では、誠志の意思を受け継ぎ、平成6年から「ひろの童謡(うた)まつり」を開催しています。このイベントでは、古くから歌い継がれてきた童謡や、全国から公募した詩から生まれた童謡が、童謡歌手と町内各団体の共演により披露されています。
 番組では、医者、童謡作家など、様々な顔を持つ額賀誠志の生涯をたどります。放送は4時55分から。


板谷まる〜陶芸界の巨匠を支えた会津の女〜

No.76 - 2004年10月31日(日) 放送

板谷波山とまる夫妻

 陶芸家として初めて文化勲章を受章した板谷波山。この波山の才能を信じて世界的な陶芸家になるまで育てあげたのが、妻である板谷まるである。
 まるは、明治3年に会津坂下町(あいづばんげまち)(現在)で髄一の呉服商の三女として生まれた。東京の共立女子学園(現在)で裁縫など実学とともに日本画を習う。


板谷波山記念館にて

 また、会津出身で社会児童福祉の先駆者である瓜生岩子にも私淑し、大きな影響を受ける。卒業後、若松に戻り、自分で創立した会津女子職業学校の主任教師として裁縫や手芸を教える。その後、波山の才能を見抜き、自分の職業婦人としての生き方を捨てて波山と結婚する。


東京都内でのロケ風景

 東京で工房を構え苦労の末、自分たちの窯を築き上げる。初窯での成功や勧業博覧会への入選を果たすが、6人の子供たちとの生活は、塩味だけのすいとんに野草を入れて食べるという日々が続く。
 明治44年に、二人は皇后陛下に招かれ御前制作をするまでになる。
その後、文化勲章を受章し陶芸界に君臨する。
 番組では、波山を支え続けたまるの波乱万丈な人生を紹介する。放送は、ごご4時55分から。


鈴木三元〜日本最古の自転車を製作した男〜

No.75 - 2004年08月29日(日) 放送

「三元車」のレプリカに乗る齋藤リポーター

 鈴木三元は、江戸末期の1814年に、現在の桑折町の裕福な農家に生まれた。三代目藤右エ門を世襲し、村長などの公職を務めるかたわら、日本三大鉱山の一つに数えられていた半田銀山の経営にもあたっていた。
 時代は明治となり文明開化の時を迎え、人生50年と言われた時代に58歳になった藤右エ門は、名前を年・月・日の始めを意味する「三元」と改名し、将来の交通手段としての乗り物「自転車」の開発を決意する。この改名は、「人生何事も始めの心構えが肝心である」という三元の決意の現れであった。


取材中のスタッフ

 当時は外国でも自転車の開発が進められていたが、自転車という発想は三元の独自のアイディアであった。しかし、三元はそのための学問を学んだわけでもなく、部品も一から作り出さなくてはならないなど開発は困難の連続であった。それでも、心血と私財を投じながら試行錯誤を繰り返し、明治9年(1876年)に三輪自転車「自走車・大河号」を完成させる。その後改良を重ね、明治14年(1881年)に開催された第2回内国勧業博覧会に「三元車」を出品、時の政治家・板垣退助からも激励を受けた。
 その実用化には、製造コストの削減など課題も多く残されていたが、三元は東京に進出し、製造から販売までを手がける賭けに出る。しかし、技術革新の波が押し寄せる中、豊富な資金も底をつき、東京からの撤退を余儀なくされた。かなわなかった三元の夢「自転車」は、その後、大正時代に庶民の足として急速に普及することとなるのである。
 番組では、晩年に心血と私財を投じて自転車の開発という夢を追い求めた三元の足跡を辿る。放送は、夕方4時55分から。


煉瓦師・田中又一〜喜多方に飴色の里を造った男〜

No.74 - 2004年06月27日(日) 放送

喜多方市内で撮影中のスタッフ

 全国的にも「蔵のまち」として知られる喜多方市。1万1千世帯余りが暮らす市内には現在2千600棟もの蔵があり、今も生活と深いかかわりを持ちながら活躍している。その種類も、粗壁・白亜・黒漆喰・煉瓦(レンガ)造りの蔵など様々。
 中でも100棟ほどある煉瓦蔵のほとんどを手掛けたのが煉瓦師・田中又一である。又一は、明治の初めに、東京に出て煉瓦の作り方、積み方を修行し喜多方に戻り三津谷地区の蔵など多くの煉瓦蔵を造った。
 使った釉薬煉瓦は、明治の中頃、喜多方に登り窯を築いた樋口市郎が考案したオリジナル製品。雨水をはじくうえ、煉瓦の強度も高まり、建物の維持に大きな効果をもたらした。
 又一が手掛けた異国情緒漂う煉瓦蔵が観光客を旅情へと誘う。又一が煉瓦にかけた想いと今も残る又一の作品を紹介する。
放送はごご4時55分から。


大堀相馬焼〜貫入音を奏でる陶芸の里〜

No.73 - 2004年02月29日(日) 放送

 大堀相馬焼は、双葉郡浪江町(旧大堀村)一円で生産される焼き物で、素朴な味わいの中に、親しみのこもった楽しさが感じられ、一度見たら忘れることのできない、強い個性を持っています。
 この大堀相馬焼には、大きな三つの特徴があります。一つめは、「青いひび」といわれるひび割れが、器全体に拡がって字模様になっているということ。二つめは、狩野派の筆法といわれる、熟練した筆使いで、疾走する馬の絵が手描きされているということ。三つめは、「二重(ふたえ)焼」といわれ、製品の構造が二重となっているため、湯呑みなどは、お湯を入れても冷めにくく、手に持っても熱くないということです。
 日用品でありながらも、深い味わいのある焼き物として知られている大堀相馬焼は、焼成後窯だしの際に、冷却によって、「ぴーんぴーん」という貫入音(ひび割れ)が鳴り響きます。
 この貫入音は、日常生活に、潤いと安らぎを与えてくれる心地よい音として、福島県の「ふくしまの音30景」に認定されています。
 創業は、今からおよそ300年前で、相馬藩士半谷仁左衛門の下僕、左馬という人物が創始者とされ、最盛期には、窯元の数も100数戸に及びました。現在では、23軒の窯元が組合をつくり、様々な陶芸家達が、大堀相馬焼に情熱を注ぎます。
 番組では、これらの窯元を中心に、大堀相馬焼とは、どんな焼き物なのかということはもちろんのこと、新しいことにも取り組みつつ、大堀相馬焼の歴史と伝統を守る窯元たちの、焼き物に対する情熱を紹介します。
放送は4時55分から。